デザインするっていうのは、結局は機能美の追求だと思うんですよね。
決して奇抜なものがデザイン的に美しいのではない。
機能をトコトンまで追及していったところに、デザイン的な美しさがあらわれる。
みたいな。
なんていうか、ここで「以上、おしまい!」って言いたい感じなんですが(笑)
それくらいね、真理、じゃないけど、
なんていうかな、結局のところ、考えかたとしてはとってもシンプルなんですよね。
例えば、あるモノは何のために存在するのか?
それは、それを使うためでしょう。
究極的にはそこに行き着く。
例えば”これは観賞用です”といったものもあるでしょう。
えーとね、あ、じゃぁ自然界のもので考えてみるとさ、
配色の理論とかもそこに落ち着いたりするんだけどさ、
観葉植物、なんていうものがあるよね?
あれは観賞用に用いられることがほとんどだとは思うんだけど、
あれの形状ってどうだろう?
まぁ、デザイン的な必要性から品種改良は行われていることはあるだろうけど、基本的にはその植物の生活のために必要なことから、そういう形状になっているわけでしょう?
例えばその植物が住んでいる土地の環境だったりとか、そういうデザイン的な縛りというか、要求というか。
土地柄というクライアントが出してきた要求に対して、デザインとして答えを出してるわけですよ。
そこには、あくまでその土地柄に合わせた機能が形態としてあらわれてくるわけなんですよね。
そこには、デザイナー(植物)のエゴなんてものは存在しない。
奇抜なデザイン(形態)になってるものもあるけれど、その奇抜さは必要性があってこその。
機能としての必要があってこそ、出来上がった形態なわけで。
人が何かをデザインする場合、どうしてもデザイナーのエゴというか、
作り手の『こんなのが作りたい!』っていう欲求が出てきてしまうんですよね。
でも、それではクライアント(要求してる側)の理論ではないわけ。
あくまでデザイナー側の都合でしかない、よね?
だからこそね、デザインって言うのは、機能美を追求しなくてはいかんのですよ。
デザイナーのエゴでモノを作ってはイカンのですよ。
自然界が作り上げた”植物”なんてものを見てると、そこには何か大事なヒントがあるんじゃないかなぁ?
なんてことを思うわけなんですよね。
そう、結局はシンプルなんですよね。
デザインっていう作業って。
機能を追及すると、そこにひとつの答えが見えてくる。
それは生活にも言えること。
シンプルにすると、見えてくるものがある。
それはつまり、”生活をデザインする”っていうことなんですよね。